「やさしさの精神病理」という本を読んだ
”やさしさ”ってあげるもんじゃないとわかった。
感じるもの、だから「やさしくしよう」とか、
わかりやくすいうと「やさしくしてあげよう」とか、
それはおかしい。
何かに対して「優しい」と感じるもの。受け手のものなんだ。
優しくなりたいと思って
このblogのタイトルを「優しさをさがして」にしたのだけれど、
結構勘違い。かなりの思い上がり。
人にやさしくできるようになりという想いは変わっていないけれど、
それは押し付けにはならないように
つまり”思いやり”が大切なのだろう。
昨年、「思いやりが大切だよ」という言葉を人にもらった。
今、また、印象深く感じる。
この本には、昔のやさしさは相手の気持ちを考えて共感し疎通をとって生まれるものと書いてあったように思った。
私は押し付けのひとりよがりの”優しさ”をたくさんぶつけてきた。
いや、振り返ってみれば”やさしさ”なんて考えていなかった。
体温の感じる距離というのを大切にしたくて、
率直に感じたことはぶつける。そのスタイルはまだ信じている。
けれど、相手の気持ちを考えることや共感することに配慮が足りていなかった。
もっと落ち着いて人と向かい合えるようになろう。
私は、そうゆう意味では、身の回りの嫌なことから逃げたがって逃げていた。
自棄気味になって内心で馬鹿にし、それはつまり自分を守ることだったのだ。
卑屈…でも開き直っていた。
うまくいかなくても、心地よいバランスをつかんで少しずつ関係を築くように努力を、気持ちを前向きに持っていこうと思った。逃げていても事態は好転しない。
わからないことはわからない。できないことはできない。
プライドが許さなくても、現実が全てを物語っている。
つくづく私はナルシストなんだと感じるけれど、
まず自分を見据えて
周りにいる人々や物事とバランスをとって
みんなで笑顔でいられる空間を増やしていこう。
優しい気持ちになれる時間を。
ひとりのときも。人といるときも。